気侭書評編集ネットワーク歴史・社会の窓メディア評

Workshop of Takaniwa IB:Historical Approach
歴史・社会の窓 歴史研究ネットワーク
遊里研究日本遊里発生史(中国色里の文化から)

2001年6月10日更新

古代、縄文遊里日本東西文化

1)「柳ノ馬場」
(御免色里はどうして生まれたか)
展開内容

関連情報とリンク

□発端□
■遊里というと一体いつごろから日本にあったのだろうという素直な疑問が浮かび上がってくる。遊廓として、時の幕府が認めたのは、時の太閤秀吉が、馬丁の原三郎左衛門と浪人林又一郎に御免色里を京都、柳ノ馬場に認めたのが最初とされているらしい。それ以前に遡ると、室町時代・応永4年(1397)足利義満のころからあった傾城町九条ノ里に由来するとされている。天正17年(1589)豊臣秀吉が二条柳ノ馬場に遊郭を許可したのが御免色里のはじめとされる。その後、これは御所に近いので恐れ多いとして慶長7年(1602)六条三筋町(現下京区)に移転、江戸幕府となった寛永17年(1640)現在の西本願寺西方(下京区西新屋敷)に位置するようになった。そのもっと以前を辿れば、中国長安の遊廓“平康里(ピンカンリー)”を模す形で生まれたとされる。この項目では、秀吉の御免色里の許可を与えた背景と当時の幕府と遊里の関係を調べることで支配層と遊女や遊里の関係を浮き彫りにしていきたいと思います。
書籍■
□御免色里誕生の背景□
太閤秀吉による御免色里の許可は、ちょうど、秀吉の北条攻めの寸前のタイミングでした。洛中、洛外の寺社境内、および門前の地子銭の免除とこの遊廓建設許可は、前後して、この北条(氏直)攻めに期を一にしていました。北条攻めへの負担を軽くする目的と洛中を活気づけるための遊廓許可とされている。しかし、秀吉は、この前年に悪所通いを禁止した事実がある。他に明らかな目的があったのではないだろうか?その鍵は、許可を与えた両名とその当時の色里(御免色里以外)がどのような状態にあったのかにある。
■映像資料:ポーラ研究所のビデオライブラリー・化粧シリーズ(貸出可)に、『島原の太夫』(25分もの)がある。■夕霧太夫と京銘菓■北条攻めの経緯は、羽柴三郎氏のサイト“異聞秀吉”の北条攻めに詳しい。
具体研究
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