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Workshop of Takaniwa IB:Historical Approach
歴史・社会の窓 歴史研究ネットワーク
日本東西文化>関東学

2001年11月6日更新

古代、縄文遊里日本東西文化

1)「関東学への視点」
(どの座標から関東学を捉えるか)
具体研究
発端東西比較への試み
まとめ
展開内容

関連情報とリンク

□発端□
最初に自分が「生まれた場所」を意識するのは、その世界を離れた時という。それほど、自分の周囲というのは、感じることはできても、余程意識しないと理解、客観的に把握できないのが常のようだ。「井の中の蛙、大海を知らず」ではなく、「井の中の蛙、井戸を知らず」というわけだ。学校時代に学んだ歴史にしても同じことがいえる。大和朝廷と聞いて、日本の古代政権と知っていても、その時代に自分が今住んでいる辺りがどうであったかは、知らなかったりする。子供の頃を思い出してみる。小学校の社会科の授業で、「郷土史をつくろう」などという授業があって、自分の住む町の歴史を調べて発表させたりした。こうした授業は、確かに記憶にはあるのだが、どんなことを調べ、どんな郷土であったかは、今となっては、ほとんど記憶にない。小学校時分、自分の興味の対象からは、郷土の二文字ははるか離れた場所にあったらしい。しかし、改めて、関東という自分の郷土を「歴史」の目で捉え直すと案外、郷土について、知らないことが多いのに気付く。そうした時、何故だかなんとなくさびしい気持ちになったりする。
発端は、そんな気分の時に出会った歴史学者の森浩一氏と網野善彦氏の対談集『日本史への挑戦ー「関東学」の創造をめざして』だった。上方に生まれ育った森氏があえて、地域史としての関東学を取り上げる姿勢に接するうちに、「関東人」である自分は、この「自分の生まれた場所」をどこまで知っているのかという気持ちがいつになく湧いてきた。
また、司馬遼太郎氏の著作の中でだったと思うが、敗戦直後に駐屯地から帰る飛行機から関東平野を眺め、「こんなに広い平野が関東なのかという感慨を感じた。」というフレーズを目にした時にも同じような思いにさせられた。関東平野の広さなどという感慨を自分は持ったことがないことに気づいた。外から「生まれた場所」客観的に見た眼、郷土への眼ということを考えた。そんな思いから、この章は、始まった。

書籍■『日本史への挑戦 ー「関東学」の創造をめざして』(森浩一網野善彦対談集、大巧社刊行)■*司馬遼太郎氏の著作での文章は以下の通り:(敗戦の年の春、新潟から関東へ向かう列車から)前橋で降り、そのあと桑畑のあいだの道を徒歩で西方の相馬ヶ原(箕輪町)にむかったときは、はじめてみる関東平野というものの広さにおどろいてしまった。「こんな広いところが、日本にもあったんですねえ」と責任者である自称騎兵くずれの老中尉にいうと・・・。(『歴史の世界から ー願望の風景 私の関東地図<中公文庫>』から転載)
□東西比較への試み□
自分の知っている「日本の歴史」とは何だろうか?ほとんどの人にとって、それは、学校時代の日本史の授業内容ではないかと思う。体系化された日本史とは、その教科書にあった各時代の章立てとその内容だったように思える。当然、どの時代でも日本全土の歴史がくまなく語れる筈も無く、ほとんどは、その時代の日本の政治の中心的な地域の話ということになる。平安時代であれば、平安京。鎌倉時代なら鎌倉幕府といった具合だろう。
しかも、これらの歴史は、自然にこうなったというよりは、「歴史」というものの性格上、その時の施政者の語る「歴史」である必然がある。ほとんどの「歴史書」なるものが、そうした目的で施政者により、「こう理解してもらいたい歴史」として書かれている。
その意味でいえば、この体系の色合いは、その視点変えると容易に覆されてくる。
例えば、平安時代の東北地方に平安京と比較しても、巨大な集落、都市のような場所があったとされ、そのことに注目すれば、突然状況は変わってくる。そうでなくとも、地域間に大きな相違があれば、それは、日本というエリア全体からは、考察に値する内容となる。各時代での「東西」の相違。それは案外、いままで均一文化に彩られた島国「日本」という間違った視点(時の日本政府が求めた日本像)を変えてくれる重要な視点かもしれない。東西比較への試みは、そんな考えの上に成り立っている。
■『歴史とな何か』()
具体研究
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