□東京低地の古墳に見る古代□
実際、江戸川から隅田川にいたる東京の低地は、古代には、海進により、湿地もしくは、海中にあったと考えられています。
古代遺跡の東京低地にみる分布図にもそれは表れています。旧石器、縄文関連の遺跡は、ほとんどが台地上にあり、低地に見ることはできません。多摩川流域や多摩地区の遺跡にこの時代の概要はまかせることになりそうです。環濠集落やその他の遺跡調査は、次の項目に譲り、この項目では、古墳を見てみたいと思います。古墳でも分布は、ほとんど縄文遺跡と共通したエリアに集中が見られます。
古墳分布図でも多摩川流域の集中が特徴的です。しかし、この項目では、特に浅草や湿地と関連のある上記の3つの川流域の古墳を取り上げてみます。以下、葛飾を紹介する“私たちの葛飾ー葛飾の歴史”から引用:「約2000年前、弥生時代の後半期には、「弥生の小海退」と呼ばれる海面後退があり、海はほぼ現在と同じ高さに低下し、東京低地と呼ばれるこの葛飾一帯がふたたび姿をみせ始めたと考えられています。蛇行・乱流して東京湾に注いでいた当時の利根川・荒川は、洪水のたびに土砂を運んで河口付近に堆積させ、海を埋め立てて陸地を形成していきました。葛飾区内では西水元・柴又・立石・青戸・立石などがもっとも早く陸化したと考えられています。<葛飾区の上平井(西新小岩)、江戸川区の今井、墨田区の寺島(東向皐)、江戸川区の小島、長島、葛飾区の渋江(四つ木)、江戸川区の一之江、瑞江、堀江、春江、さらに葛飾区の青戸・奥戸など、東京東部低地に残っている井・島・江・戸といった字のつく地名は、当時の地形からうまれたもの。>弥生時代から古墳時代にかけて、農業や漁業によって生活を営んでいた葛飾の人々は、自然堤防と呼ばれる川沿いのやや高い所に住み、川を交通の手段として使っていた。柴又や立石に築かれていた古墳は、当時かなりの集落があり、権力者がこの付近を治めていたことを証明しています。」
東京低地には、少なくとも二つの古墳群が知られています。一つは足立区北部の毛長川流域、もう一つは葛飾区東部の中川流域から江戸川右岸にかけての地域です。他には、荒川区南千住の素盞雄神社、台東区の鳥越神社、北区の中里遺跡などに古墳の可能性があります(浅草寺周辺についても可能性はあるのですが確認不能です)。 はじめに、
柴又八幡神社古墳を紹介します。人物埴輪が発見された古墳です。土器などの年代から、おおよそ9世紀後半と推定されます。こうした古墳に手掛かりを捜すことがより、この時代の人々(権力者や平民)の営み(海上、または海辺での生活)を具体的に解明することになりそうです。(10/9)