気侭書評編集ネットワーク歴史・社会の窓メディア評

Workshop of Takaniwa IB:Historical Approach
歴史・社会の窓 歴史研究ネットワーク
日本東西文化>関東学

2004年9月14日更新

古代、縄文遊里日本東西文化

2)「時代区分と転換点」
(東西比較で見た時代区分と大きな転換期を探る)
具体研究
各時代の関東旧石器以前の関東東京低地の古墳に見る古代奈良時代の戸籍武士の関東
まとめ
展開内容

関連情報とリンク
各時代の関東
書籍■

具体研究

詳細資料・文献リンク
□旧石器以前の関東□ (11/6)
□古代・縄文の関東□
古代の関東を取り上げる場合、重要な資料となるのが、713年に元明天皇の詔により、編集されたとされる官撰の地誌『常陸国風土記』。森氏は、この中で那賀郡のところに出てくる大櫛(串)貝塚に注目している。実際の遺跡と符号する著述としては、かなり古いものだ。さらには、水戸光圀による最初の学術発掘として知られる那須車塚遺跡(5世紀の古墳)も取り上げている。
ここでは、氏も指摘している貝塚に注目したい。全国で発見される貝塚の6割は、関東に集中している事実から、その特異性に着目することが重要になってくる。貝塚とは一体何なのか?全国に均等に発見されているので無いかぎり、特定な文化の形態として、その内容を知っておく、必要がある。(4/20)
縄文ネットワークは、縄文遺跡のデータベース。遺跡が概要を知るには便利!■縄文ネットワークで検索した大串貝塚
□東京低地の古墳に見る古代□
実際、江戸川から隅田川にいたる東京の低地は、古代には、海進により、湿地もしくは、海中にあったと考えられています。古代遺跡の東京低地にみる分布図にもそれは表れています。旧石器、縄文関連の遺跡は、ほとんどが台地上にあり、低地に見ることはできません。多摩川流域や多摩地区の遺跡にこの時代の概要はまかせることになりそうです。環濠集落やその他の遺跡調査は、次の項目に譲り、この項目では、古墳を見てみたいと思います。古墳でも分布は、ほとんど縄文遺跡と共通したエリアに集中が見られます。古墳分布図でも多摩川流域の集中が特徴的です。しかし、この項目では、特に浅草や湿地と関連のある上記の3つの川流域の古墳を取り上げてみます。以下、葛飾を紹介する“私たちの葛飾ー葛飾の歴史”から引用:「約2000年前、弥生時代の後半期には、「弥生の小海退」と呼ばれる海面後退があり、海はほぼ現在と同じ高さに低下し、東京低地と呼ばれるこの葛飾一帯がふたたび姿をみせ始めたと考えられています。蛇行・乱流して東京湾に注いでいた当時の利根川・荒川は、洪水のたびに土砂を運んで河口付近に堆積させ、海を埋め立てて陸地を形成していきました。葛飾区内では西水元・柴又・立石・青戸・立石などがもっとも早く陸化したと考えられています。<葛飾区の上平井(西新小岩)、江戸川区の今井、墨田区の寺島(東向皐)、江戸川区の小島、長島、葛飾区の渋江(四つ木)、江戸川区の一之江、瑞江、堀江、春江、さらに葛飾区の青戸・奥戸など、東京東部低地に残っている井・島・江・戸といった字のつく地名は、当時の地形からうまれたもの。>弥生時代から古墳時代にかけて、農業や漁業によって生活を営んでいた葛飾の人々は、自然堤防と呼ばれる川沿いのやや高い所に住み、川を交通の手段として使っていた。柴又や立石に築かれていた古墳は、当時かなりの集落があり、権力者がこの付近を治めていたことを証明しています。」
東京低地には、少なくとも二つの古墳群が知られています。一つは足立区北部の毛長川流域、もう一つは葛飾区東部の中川流域から江戸川右岸にかけての地域です。他には、荒川区南千住の素盞雄神社、台東区の鳥越神社、北区の中里遺跡などに古墳の可能性があります(浅草寺周辺についても可能性はあるのですが確認不能です)。 はじめに、柴又八幡神社古墳を紹介します。人物埴輪が発見された古墳です。土器などの年代から、おおよそ9世紀後半と推定されます。こうした古墳に手掛かりを捜すことがより、この時代の人々(権力者や平民)の営み(海上、または海辺での生活)を具体的に解明することになりそうです。(10/9)
■東京における遺跡情報データベースとして、活躍するサイト「東京遺跡情報2000」。このページでもお世話になっています。■葛飾区のHP、“私たちの葛飾”■東京都埋蔵文化財センターの公式ホームページと同ページをフォローする私設サイト“東京都埋蔵文化財センター公認私設ウェブページ”■
□奈良時代の戸籍□
左記、森氏の『関東学を拓く』でもふれられている、下総国葛飾郡大島郷の養老5年(721年)の戸籍を取り上げる。この時代の氏族名に注目してみたい。戸籍は、“甲和里<こうわり>44戸、454人、小岩だろうと推測されているエリア”、“仲村里<なかむらり>、44戸、367人、葛飾区立石、奥戸エリアに推定されるエリア”、“嶋俣里<しままたり>、42戸、370人、柴又に推定されているエリア”で計130戸、1901人の人間が記録されている。最大の氏族名は、孔王部(あなおうべ)が男女計で546名(全体の3割近く)である。一般に氏の下に部がつく民は、身分の低いものと見られているが、一概にはいえず、今後の研究が必要とされている。孔王は、穴穂で、允恭天皇の子、穴穂皇子、後の安康天皇とされるのが通説となっている。5世紀後半の大王の名前の孔王部が東京の東南部に居住していたのかが注目すべき点といえる。さらに注目したいのは、元々この地に居住するものが孔王を称している点だ。父親と子どもが全て、孔王で妻と祖母のみ別の土師部や刑部という家がある。同じ氏族での婚姻をしていない点も関東という地域の高麗との交流を物語る重要な点と指摘しておきたい。(8/6)『古代農民忍羽を訪ねて』から(8/11)
■『関東学を拓くー調査ノート1999-2000』(森浩一著、朝日新聞社刊)●柴又地名の由来として、取り上げられた奈良時代の戸籍●葛飾区の公式ホームページにある“郷土と天文の博物館”の「地名の由来」のより詳細な解説●この戸籍にある“孔王部押忍羽(あなほべのおしは)”という農民についての本、『古代農民、忍羽を訪ねて』(中公新書、関和彦著、1998年11月発行)の書評
□武士の関東

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