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●1月20日 |
飛鳥・奈良時代の行政庁舎、郡衙政庁跡を発見−上神主・茂原遺跡/栃木(毎日新聞、2002年1月17日)記事:宇都宮市と上三川町の両教委は16日までに、両市町にまたがる上神主・茂原遺跡で飛鳥〜奈良時代の「河内郡衙(ぐんが)政庁」の建物跡を発見した。郡衙政庁とは地方行政機関の本庁舎にあたり、発見されたのは県内初。同遺跡ではこれまで、行政機関が租税の米を収納した倉庫「郡衙正倉(ぐんがしょうそう)」跡が約30棟発見されており、郡衙政庁と正倉が一定の規模で発見されるのは全国的にも珍しいという。今後は国指定の史跡を目指して申請する方針だ。
今年度の調査は昨年9月から今月まで行われた。専門家で組織する同遺跡調査指導委員会が15日に開かれ、出土した建物跡について分析。その結果、南に面して建つ正殿跡を真ん中に、東西にそれぞれ脇殿が並ぶというコの字状配置などから「郡衙政庁跡と位置付けるのが妥当」と判断された。
同委員会のメンバーで宇都宮市文化財保護審議委員会会長の塙静夫さん(69)は「郡衙政庁・正倉など郡の政治に伴う建物が整然と並んでおり全国的にも非常に珍しい」と高く評価している。
同遺跡は'95年から調査を始めており、昨年1月には郡衙正倉跡とともに、人名が書かれた瓦が約1200点出土している。遺跡中央部に存在したと見られる大型の正倉の屋根をふいた瓦と考えられており、今回の政庁との関連についても今後研究が進められる。
両教委は26日の午後1時半から現地説明会を予定している。問い合わせは宇都宮市教委文化課(028・632・2764)か上三川町教委社会教育課(0285・56・9160)まで。【仙石恭】 |
■郡衙正倉関連文献:「郡衙正倉の変遷/『郡衙正倉の成立と変遷』(奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター編)奈良国立文化財研究所研究集会報告集」2000/12/5 奈良国立文化財研究所刊行 (47p)書誌ID=20636224 NCID=BA51486989、■同じく関東の郡衙正倉跡としては、東京都北区豊島の郡衙正倉跡の展示)を北区の北区飛鳥山博物館(1階の常設展示で見ることができます。博物館についての案内は、北区のホームページにある施設案内へ!■上神主遺跡のある栃木県、上三川町役場のホームページにも遺跡の案内があります。 |
●1月20日 |
松阪の宝塚一号墳で遺跡再探査(中日新聞、2002年1月17日)記事:全国最大の船形埴輪(はにわ)が出土した松阪市宝塚町の国指定史跡・宝塚一号墳で16日、奈良文化財研究所埋蔵文化財センター(奈良市)と松阪市文化財センターが共同で被葬者が埋葬されていると推定される墳頂部を地上から非破壊で探る遺跡再探査に取り組んだ。18日まで2号墳を含めて探査する。
探査には研究所の西村康遺跡調査技術研究室長ら5人があたり、午前中は1号墳頂部約100平方メートルの地中に電気を流し、土壌の異物の電気抵抗差で遺物の存在を推定する電気探査を実施。午後は地磁気を観測して鉄剣や鎧(よろい)などの鉄製品がないかを調べる磁気探査をした。1号墳頂部は、昨年九月に深さ10メートルの範囲を探査をした結果、地下1メートルほどの場所から埋葬施設らしい影が見つかった。今回の再探査では浅い部分をより解像度が高い装置を使って調べた。この日の電気探査で、埋葬部と見られる場所は電気抵抗値が低いことが分かった。西村室長は「抵抗が低いので、埋葬部は石棺や石室ではなさそう。古墳時代の埋葬例から木棺を粘土でくるんだ粘土槨(かく)ということも考えられる」と話していた。17日は、前回の探査で2号墳の前方推定部が近くの道路上まで延びている可能性があるため、約150平方メートルを探査する。18日は1号墳頂部で、すべての金属に反応する電磁誘導探査をし、鉄製品以外の金属が埋葬されていないかを調べる。
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■サイト“大和の遺跡”(企画・制作:馬見古墳群調査委員会)にある宝塚一号墳発掘調査の紹介、船形埴輪の写真も見ることができます。■ |
●1月10日 |
熱帯型と温帯型イネ混在 日本の稲作変遷示す 都城・坂元A遺跡(西日本新聞、2002年1月9日)記事:宮崎県都城市教委は8日、国内最古級の縄文時代晩期後半(2500〜2400年前)の水田跡が確認された坂元A遺跡(同市南横市町)のプラントオパール(イネに含まれるケイ酸体)の形状解析の結果、(1)縄文時代の地層では、東南アジアなどに残る原初的なイネ・熱帯ジャポニカが多い(2)弥生時代以降から中世にかけては、現在広く主食にされている温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混在(3)近世以降は温帯ジャポニカが中心―と判明したと発表した。日本の稲作については従来、弥生以降に北部九州などから温帯ジャポニカが全国に爆発的に広まったとする説が有力だったが、近年は温帯型と熱帯型の混在が長く続いたとの見方も出ており、今回の解析結果はそれを裏付けた形。炭化米のDNA鑑定で稲のルーツを研究している静岡大学の佐藤洋一郎助教授(遺伝学)は「ひとつの水田遺跡で、縄文から近世までの日本の稲作の変遷をそっくり示す貴重なデータ」と評価している。
プラントオパールの解析は宮崎大農学部の宇多津徹朗助教授(地域農学)が担当。同遺跡の縄文から江戸時代までの17の地層から各50個のオパールを無作為に抽出し、長さや厚みなどの数値を基に各年代のイネの特徴を分析した。その結果、(1)縄文層の数値は熱帯型(2)弥生から中世の地層は熱帯型と温帯型が混在(3)江戸時代の層は温帯型―だったという。
熱帯型は焼き畑など原始的な栽培方法でも育つが収量は低く、温帯型は高収量が可能だが水管理など高度な農業技術が必要。弥生期以降、両方の型の混在が長く続いたことについて、宇多津助教授は「安定した稲作技術が確立するまでの間、日本では両品種の長所、短所を生かしながら、収量がゼロになる危険を回避していたのではないか」とみている。
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■佐々木章さんのプラントオパールに関するサイト■岡山市・朝寝鼻貝塚から発見された日本最古のイネ化石についての調査報告■ |
●1月3日 |
木柱は縄文の暦 長井・長者屋敷遺跡(河北新報、2001年12月27日、バックナンバー検索より)記事:長井市草岡の長者屋敷遺跡で出土した縄文時代中期(約4000年前)とみられる「半截(はんさい)木柱遺構」が、冬至や夏至を知る暦の役割を果たしていたことが、26日までに長井市教育委員会などの調査で分かった。市教委によると、同遺構の柱跡は4つあり、半円形や長だ円形をしている。直径50-80センチ、深さ80-120センチで、高さ4、5メートルの柱が立っていたと推測されている。4つの柱跡は、1辺が約3.5メートルのほぼ正方形となっている。
長井市教委は、小林達雄国学院大教授の協力を得て昨年から調査を進めていた。今月22日の冬至は悪天候のため検証できなかったが、24日の調査で南西と北東の柱跡を結んだ方向に、太陽が沈んだことを確認した。これまでの調査結果と併せ、対角線の延長線上に「夏至の日の出」「冬至の日の入り」があり、「春分、秋分の日の出」は西側2本の中間点から東側2本の中間点を見る方向にあることが確認されたとしている。
小林教授や市教委は「季節を知ることで、木の実や植物を採取したり、冬への備えをしたりする時期を知っていたのではないか。縄文人が計画的に暮らしていたことを示す資料だ」と話している。
長者屋敷遺跡は、1977年から5年間の第1期調査で住居跡16棟や土器が出土。'98年の第2期調査で半截木柱遺構などが出土していた。木柱による暦としては、青森市の三内丸山遺跡で、6本柱のうち3本を結ぶ線が「夏至の日の出」と「冬至の日の入り」の方向を示していることが確認されている。
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■長井市のサイト“Web-Dewa Nagai AP”にある長者屋敷遺跡の案内■社会科教師の久下哲也さんのサイトにある伊勢・鈴鹿の古代史めぐりコーナーにある同遺跡の紹介■サイト“ASAO'S HOMEPAGE”にある伊勢国分寺の解説■ |
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