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Workshop of Takaniwa IB:Historical Approach
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ニュース・バックナンバー(2001)

2001年・2002年最新ニュース

2001年12月22日更新

このコーナーでは、歴史・社会の窓に関係する最近のニュースやトピックスで掲載しています。
特にニュース記事リンクは、ニュース自体が削除されることが多いので、このコーナーでは、
可能な限り、関連リンクを掲載し、記事内容に関する詳細が背景や関連資料を提供するつもりです。
INDEX

2001年・6月7月8月9月10月11月12月
12月 記事 関連情報リンク
12月22日

京都に邪馬台国時代のクニ? 大型建物跡を発見京都新聞、2001年12月19日>記事削除、京都新聞の記事バックナンバーは現在2001年9月までのみ検索可能!)記事:京都市南区久世殿城町の大藪遺跡を調査していた大藪遺跡発掘調査団(代表=小泉信吾・安西工業文化財調査部主任調査員)は18日、弥生時代後期の大型建物跡一基を確認し、柱の根元部分6本がほぼ完全な形で見つかったと発表した。
建物跡は長方形(短辺約6.4メートル、長辺約8.4メートル)で7個の柱跡を確認、6個は柱材の根元部分が残っていた。柱は直径が最大45センチ、残存部の長さは1.2メートル前後。材質は針葉樹と見られる。それぞれの柱穴から建物外側に細長い掘り込みがあった。柱を掘り込みに入れて、穴に立て起こしたと見られ、弥生時代のものとしては市内で初めての出土という。
付近では以前の調査で同時期の大型竪穴住居跡が見つかっており、集落が広がっていたと考えられる。調査団は「柱から推測して高さ4メートル以上の高床式建物。神殿や高殿とは断定できないが、特別な建物だったことは間違いない」(小泉信吾調査員)としている。また、上原真人京都大文学研究科教授(考古学)は「柱の配置が他に類例がなく、弥生時代の建物を考える上で貴重な遺跡なので、ぜひ周辺調査を進めてほしい」と話している。民間のマンション建設に伴う発掘調査で、調査は年内続ける予定。現地説明会は行わないが見学を随時受け付ける。

■サイト“考古の部屋”の古代コーナーのニュースバックナンバーで現地の写真がみられます。
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11月 記事 関連情報リンク
11月22日 三内丸山遺跡・環状配石墓から赤色顔料 重要な資料に−県教委発表/青森毎日新聞、2001年11月16日>記事削除、バックナンバーにも無し)記事:◇縄文人の死生観を探る重要な資料に
県教委は15日、三内丸山遺跡(青森市)の環状配石墓(縄文中期)から赤色顔料が見つかったと発表した。同遺跡では過去にも顔料が出ているが、墓から見つかったのは初めて。墓から出土した赤色顔料は死者の復活を願い、血液の代わりとして使用したものといわれ、縄文人の死生観を探るうえで重要な資料になりそうだ。県教委は17日午後2時から、一般向けの現地説明会を開く。
顔料は'99年調査で発掘した環状配石墓(直径4.2メートル)の地下約60センチで見つかった。成分は調査中だが、ベンガラの可能性が高いという。
県教委は公園センター(建設中)から遺跡中心部につながる「縄文の道」整備のため、今年度は遺跡南側4200平方メートルを調査し、昨年調査で列状土坑墓や貯蔵穴が出土した遺跡西端1300平方メートル、旧野球場建設予定地東側500平方メートルを発掘した。遺跡南側からは'98〜'99年調査の際、7基の環状配石墓が一列に並んでいるのを確認したが、今年度調査で新たに南側に2基見つかった。
遺跡西端の貯蔵穴を精査したところ、上部の口が直径1メートル30センチ、底の直径が2メートル60センチ、深さは約2メートルのフラスコ形をしていると分かった。貯蔵穴は今年度調査で、新たに約60基出土した。約40メートルにわたって16基の土坑墓が列状に並び、墓列に沿うように道路が整備されていた。道路は遺跡東側で採取したと見られる粘土のブロックが敷き詰められていた。【亀井宏昭】
■ベンガラ色:R137 / G55 / B41 (893729)■ベンガラの成分の正式名称は、三二酸化鉄、酸化鉄(Red Oxide of Iron , Iron Sesquioxide)。暗赤色〜赤褐色粉末で、無臭な赤色顔料。酸化第二鉄を主成分とする赤色顔料の慣用名。インドのベンガル地方で産したことからつけられた名称です。水にぬれやすく、着色力が大きく、日光、熱、空気および水分に安定で、現在でもアイシャド ウ、ファンデーション、アイカラー、眉墨などのメイクアップ製品に用いられます。 ■縄文時代の埋葬に頭から胸部にかけてベンガラを散布する風習があったことを語る資料・縄文時代の墓の方位のあるサイト“秋田の星の民俗・天文考古学情報”■岡山県の成羽町のホームページにある吹屋ベンガラについてのコーナー“吹屋ベンガラ盛衰録”。ベンガラについての歴史説明もあります。■
11月3日

大清水上遺跡で50棟超す大型住居 岩手河北新報、2001年10月29日>2001年11月以前の記事は、データベース(有料)へ移行のため、検索不可。)記事: 岩手県埋蔵文化財センターが発掘調査している胆沢町若柳慶存の大清水上遺跡で、大型住居50棟以上からなる縄文時代前期後葉(約5500年前)の大集落跡が発見された。円形広場を中心に住居が放射状に並ぶ環状集落で、この時代の大型住居跡としては県内最大級の規模。同センターは11月3日午後1時から現地説明会を開く。大型住居について、同センターは「1集落に1棟程度しかないのが通例で、集会所のような役割を果たすと考えられてきた。今回、大型住居が多数出土したことで、この説を覆す可能性もある」(佐藤淳一文化財調査員)と説明。縄文人の家族形態や住環境を探る上での材料となりそうだ。
発見された大型住居群は、1棟の長軸の長さが約10-20メートルのだ円形または長方形の竪穴住居。床面積は、50-100平方メートルと通常の竪穴住居(約15平方メートル)より数倍広い。住居内には煮炊きに使う炉が複数あるところもあり、1棟に複数家族が同居した可能性もある。
同遺跡からは約50-60棟の住居跡が見つかったが、そのほとんどが大型住居で占められているのが最大の特徴だ。県内の大型住居の遺跡として知られる遠野市の新田II遺跡(約20棟)の規模を上回る。住居配列は直径約20メートルの円形広場を囲む形で、住居が規則的に並ぶ典型的な環状集落。広場は集落の中心として祭祀(さいし)などの儀式が行われたとみられている。遺跡からはまた、刺突(しとつ)と呼ばれる紋様が入ったイチジク形土製品(長さ約7センチ)が県内で初めて出土した。この土製品の使用法は不明だが、これまで宮城県北の迫川流域の4つの遺跡などから十数点しか見つかっておらず、同地方の縄文文化と何らかの関連があるとみられている。
同遺跡は北上川の支流胆沢川の南約1キロに位置する胆沢扇状地の高台にあり、胆沢ダム建設事業の堤体材料採取地。発掘調査は2000年度から行われ、約1万3600平方メートルが対象。現地説明会の問い合わせは発掘調査事務所0197-49-2708へ。

■岩手県教育委員会のサイトにある“岩手県埋蔵文化財センターの概要”■
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10月記事関連情報リンク
●10月23日「弘安の役」長崎・鷹島沖で沈没「元寇の軍船」海底で発見西日本新聞、2001年10月20日>記事削除、西日本新聞は記事データベース利用有料のため、アクセス不可)記事:長崎県鷹島町教委は19日、同町神崎免の海底遺跡から、鎌倉時代の元寇(げんこう)(弘安の役)で沈んだ元の軍船とみられる多数の船材と、元軍が使ったさく裂弾「てつはう」(鉄砲)などの武器類が出土した、と発表した。13世紀当時の中国船の船体構造が分かる船材と、完全な形の「てつはう」の発見は、ともに国内で初めて。元寇で襲来した軍船の復元も可能な資料として注目される。
神崎港改修工事に伴う緊急調査。8月中旬からポンプで海底の砂を吸い上げ、遺物を発掘した。海岸から沖合約40〜80メートル、深さ約10メートルの海底で、船の側面の外板、マストを支える方形のほぞ穴のある台座、船室を分ける隔壁板とみられる船材が多数見つかった。外板は最大で厚さ10センチ、幅45センチで、長さ3.2メートル。
船材は、炭素の分析による年代測定で12〜13世紀のものと判明。船材に交じって元代の陶器片約300点も見つかったことなどから、元の軍船であると確認した。
「てつはう」は直径約14センチのほぼ球形。陶器製で厚さは約1.5センチ。火薬を詰めるための直径約4センチの穴が上部にある。完全な形の1点と半球状に割れた2点の計3点が見つかった。
船の構造に詳しい日本海事史学会の山形欣哉理事は「当時の船は、中国などで五隻発見されているが船底部分だけ。ばらばらになって沈んだと想像される鷹島沖の元船は、上部が見つかる可能性が高い。今回、船の手すりの一部とみられる木片も見つかっていて、船の全体像を明らかにできる貴重な遺跡だ」と話している。

■戦闘、生活解明船復元に期待【解説】元軍の大船団が暴風雨で一夜のうちに壊滅的打撃をうけたことを裏づけるように、船を復元できるほど大量の船材が出た意味は大きい。「(高麗からの)東路軍、(揚子江河口からの)江南軍の船の構造や、軍団の構成要素を解明する上で期待できる」(矢沢知行・愛媛大教授)からだ。
また、「てつはう」をはじめとする武器類や船上生活を示す陶磁器や金属食器も含め、出土した積み荷の数々は、元軍の船、戦闘、生活に迫る貴重な資料といえよう。元寇は東アジアを包んだ戦いであり、調査の成果は、日本史だけでなく、東アジア史を知る上で貴重となる。
わが国の水中考古学の出発点ともいえる鷹島海底遺跡調査。二十年間にわたる調査の中でも、最大級の成果を挙げた今回だが、豊富な資料をていねいに整理・検証していくことが、“宝探し的”とやゆされることもあった水中考古学の評価を高め、日本史の中でも特異であった「元寇」の解明に迫ることになる。(文化部・嶋村初吉)
元寇と鷹島 1274(文永11)年と1281(弘安4)年の2回にわたる元軍の日本襲来が元寇。それぞれ文永、弘安の役とも呼ばれる。文永の役では元軍4万人、900隻が対馬、壱岐を経由して博多湾に侵入。鷹島にも上陸し、「生き残る者わずかに2人」の惨禍をもたらしたとされる。弘安の役では14万人、4400隻の元の大軍が襲来。鷹島沖に集結したが、九州を襲った激しい暴風雨により壊滅的な打撃を受け、ほとんどの船が沈没した。(西日本新聞)
■日本海事史学会にも所属する石田教授のサイト“石田研究室”。中国船に関する研究も!■北前船の研究なら“但馬学研究会”のサイトへ■海事史や交通史関連の古書なら“五萬堂書店(神田)”へ。海事史研究(日本海事史学会発行)のバックナンバーなども取りそろえている“いるか書房(福岡県)”もおすすめ。■サイト“九州・沖縄水中考古学協会”には、鷹島海底遺跡に関するコーナーがあります。■鷹島町の公式ホームページ■福岡県博多区にある“元寇資料館”の案内
●10月23日小野小町伝説、訪ね歩いて…記録ビデオ製作−協和町の篠崎隆さん/茨城(毎日新聞、2001年10月19日>記事削除、バックナンバーにも無し。)記事:平安時代の女流歌人、小野小町にまつわる全国各地の伝説を集めた記録ビデオ「小野小町物語―見聞・美貌(びぼう)の天才歌人の生涯」がこのほど完成し、水戸市三の丸1の常陽芸文センターで試写会が開かれた。
協和町桑山在住の映像作家、篠崎隆さん(68)が昨年から、小町ゆかりの地など約20カ所を取材して撮影。自らシナリオを書き、ナレーションも入れて55分の作品にまとめた。
地元の保存会が小町伝説を基に作曲、振り付けし、京都・随心院で寒梅に合わせて披露される「はねずみ踊り」と、数年前から秋田県雄勝町がまちおこしの一環で開催している「小町まつり」の2カ所をメーンとして、和歌山県の熊野古道にある小町の墓や新治村の遺跡など、伝説の地を収録している。
小町は六歌仙の一人で、絶世の美女と言われているが、その生涯は謎に包まれている。諸説あるが、「小野系図」では出羽郡司・小野良実の娘とされている。仁明天皇に仕えたとされ、その歌風は後に「陽炎日記」や「源氏物語」などに大きな影響を与えた。宮廷から姿を消した小町は山科小町の里に隠れ住んだとされている。
11月末には京都市でビデオを公開する予定。希望者には頒布する。問い合わせは篠崎さん(電話0296-57-9905)。【小林昭雄】
小野小町に関する京都市内の史跡めぐりのサイト■全国にある小野小町ゆかりの町などの情報サイト“小野小町”■茨城県協和町の公式ホームページ
10月20日

「出羽」記す土器が出土 平安初期の統治者か−仙北町・払田柵跡/秋田毎日新聞、2001年10月17日>記事削除、バックナンバーにも無し。)記事:■「男賀」の文字も

仙北町払田長森の国指定史跡「払田柵跡(ほったのさくあと)」から、現在の山形、秋田両県を含む地域の旧国名「出羽(でわ)」の文字が彫られた古代土器が国内で初めて出土した。人名とみられる「男賀」の文字もあり、人名とすれば全国的にも珍しいという。県埋蔵文化財センターは「当時の統治者の勢力の大きさに加え、誰が秋田を統治していたかの手がかりとなる貴重な発見」と述べている。
センターによると、土器は素焼きの酒杯の一部で、直径13〜14センチ。秋田が「出羽国」と呼ばれた平安時代から安土桃山時代のうち、初期の9世紀の作とみられる。「出羽」の文字がある遺物としては、秋田城跡の漆紙文書に並んで古く、土器としては初めて。
酒杯の底には「出羽■■■郡■男賀凡酒杯」(■は欠損部分)とあり、鑑定の結果、「出羽国秋田郡」の「男賀凡(姓名)の酒杯」または「男賀氏の大きな酒杯」と推定された。男賀氏は現在の男鹿半島周辺を支配した地方豪族とみられ、当時、中央政権の出先機関だった払田柵において、誰が秋田の地を統治したかの解明につながる可能性がある。
また、柵跡から南西に約200メートル離れた千畑町土崎の厨川谷地(くりやがわやち)遺跡の10世紀前半に掘られた穴などから、コンテナ100箱以上になる大量の木製祭祀(さいし)具や土器が発見された。当時払田柵にあった行政機関が祭祀をした場所とみられ、払田柵跡の規模が現在の範囲より大きいことが初めて証明された。
センターは5月以降、柵跡の遺跡と周辺を調査していた。
20日には一般対象の合同遺跡見学会がある。午前10時、仙北町払田牛嶋20のセンター集合。問い合わせ電話0187-69-3331。【田所柳子】

■払田柵跡
平安時代初期の9世紀から10世紀後半まで、中央政権が律令国家の出先機関として設置した役所の跡。行政・軍事をつかさどった。東西1370メートル、南北780メートルで、東京ドーム8個分の87万5,000平方メートルがスギ材約2万本を使った材木塀の「外柵」で囲われていた。「続日本紀」など史料に記述がなく、城柵の詳細は多くの謎が残る。

10月15日上栗須遺跡で85年に出土、古銭は「富本銭」−県埋蔵文化財調査事業団/群馬(毎日新聞、2001年10月13日)記事:県埋蔵文化財調査事業団はこのほど、藤岡市上栗須の「上栗須遺跡」から'85年に出土した古銭が、日本最古の鋳造貨幣「富本銭(ふほんせん)」と判明したと発表した。関東地方で見つかったのは初めてで、同事業団は「7世紀後半の律令国家時代の貨幣が近畿から群馬まで流通していたことの可能性を示す画期的な発見だ」としている。【吉田勝】
この富本銭は'85年3月、同事業団が上栗須遺跡の発掘調査をしていた際、横穴式円墳の石室の入り口付近の地表約1メートル下から1枚出土した。同事業団は、古銭であることは認識していたが、富本銭であると判別がつかないまま、長期間保管していた。今年7月になり、職員が点検した際に富本銭ではないかと気付き、奈良文化財研究所に鑑定を依頼していた。
同研究所によると、この富本銭は直径約2センチ、厚さ2.3〜2.5ミリ、重さ2.75グラム。縁が欠けており、元々の大きさや重さなどは分からない。四角い穴の上下には「富」「本」の文字が読み取れる。材質は銅を主成分に、アンチモンやヒ素、銀、鉛などを含む合金で、奈良県明日香村「飛鳥池遺跡」で発掘されたものに代表される一連の富本銭と「成分が一致を示す」としている。
富本銭は長い間、江戸時代の絵銭と位置付けられてきたが、'85年に奈良県の平城京遺跡の井戸底から出土したのを契機に考古学的な検討が加えられた。さらに、'98年の飛鳥池遺跡での発掘調査の結果、7世紀後半の日本最古の鋳造貨幣であることが判明。'99年1月に同研究所が発表した。
これまで近畿地方以外では、長野県高森町と飯田市の古墳からそれぞれ1枚ずつ見つかっており、今回は3例目の発見。同事業団は「富本銭の分布領域を大幅に塗り替える発見。律令国家成立期に上野国が担った歴史的役割を解明するうえで、重要なかぎを握る資料だ」と説明している。
■東北地方の縄文関連の遺跡を調べるのに最適なサイト“縄文の風景”■サイト“群馬県埋蔵文化財調査事業団”■NTT奈良にある富本銭の特集ページ■サイト“古代の学舎”にある富本銭の出土した奈良の飛鳥池遺跡の特集
10月4日縄文時代のたも網出土=北海道(時事通信、2001年10月3日)記事:北海道石狩市教育委員会は3日、縄文時代中期(約4000年前)の船具や舟形容器の出土が相次いでいる同市花川の紅葉山49号遺跡で、魚をすくうためのたも網がほぼ完全な状態で出土したと発表した。縄文時代のたも網がこうした状態で見つかるのは極めて珍しいといい、市教委は「当時の漁法など生活様式を解明するのに貴重な史料」と話している。
出土したたも網は、長さ約160センチ。Y字型の木の枝の先端同士をブドウのつるで結び付け、網を張る円形を作っている。市教委は「網は消耗品なので、柄から先端までの枠の部分がこれほどそっくり残っているのはまれ」と評価している。
同北海道石狩市教育委員会の報告書■掲示板“考古学通信”には、同説明会など様々な考古学の情報が掲載されているので要チェック!
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9月記事関連情報リンク
9月27日馬形装身具が出土=長野市の遺跡で(時事通信、2001年9月27日)記事:長野市埋蔵文化財センターは27日、同市吉田の浅川端遺跡から、日本で初めて馬形帯鉤(たいこう)と呼ばれる馬の形をした装身具の出土が確認されたと発表した。今回出土したものは高さ6.7センチ、幅9.2センチ、重さ40グラムで帯を留めるのに使われたとみられる。3世紀に朝鮮半島で造られ、日本に流入したものと考えられる。5世紀半ばから8世紀の住居跡から出土した。■大分の遺跡での「馬形帯鉤」に関する説明と写真。■サイト“考古学のおやつ”で見つけた「馬形帯鉤」に関する韓国の文献「姜炯台・趙詳紀・鄭起正,1999,「鉛同位元素比法による尚州城洞里古墳群出土青銅製馬形帯鉤の産地推定」,『学術調査報告第40冊
尚州城洞里古墳群』,ソウル,韓国文化財保護財団,385-39」■サイト“平家蟹さんの古墳見て歩記”の岡山の榊山古墳1号古墳での「馬形帯鉤」出土の話■
環状配石遺構、縄文晩期で県内初−森吉町・向様田遺跡の調査結果公表/秋田(毎日新聞、2001年9月27日)記事:県埋蔵文化財センターは26日、森吉町の向様田(むかいさまだ)遺跡の調査結果を公開した。同遺跡は縄文時代晩期(約3000年-2700年前)とされる遺跡だが、この時代としては県内初の環状配石遺構2基などが出土。同センターは「大規模で多様な祭祀(さいし)跡として貴重な資料だ」としている。
調査は森吉山ダム建設に伴うもので、昨年7月から今年10月中旬まで約2万3800平方メートルを調査。遺跡は6遺跡で構成され、森吉山ろく西側の小又川右岸の段丘上に広がっている。一般公開に先立ち報道公開した。29日午後2時から同遺跡で一般への見学会を開く。
この結果、約1万3000平方メートルの調査地から、環状配石遺構や遺物の捨て場、遺体を埋葬したと見られる土坑墓(どこうぼ)や配石墓などが確認された。
このうちA遺跡の東部環状配石は2重円形状で、中心部に直径約11.4メートルの円形に石を組んだ配石遺構が、その外側には、直径約13メートル、幅約2メートルで高さ約40センチの石積みが環状に巡らされていた。
さらに西側へ50メートル離れた場所からは、中心部にへん平な河原石を平らに敷いた環状配石が見つかった。規模は横3.1メートル、縦1.9メートルの四角状。その外側には数基の柱穴があったが、大きいものだと直径約60センチ、深さ1.3メートルの大型の柱穴が見つかった。
同センターでは、敷石を中心に建物や柱群が立ち、周囲に石積みを配置した祭祀施設があったのではないかとみている。敷石周辺に柱群が見つかった例としては、いずれも縄文晩期の矢瀬遺跡(群馬県)や寺地遺跡(新潟県)などがあるという。
また遺物を捨てた「捨て場」からは土偶や岩偶、石剣、朱塗りの土器などが多数出土。積み上げられた盛土遺構(直径約10メートル、広さ300平方メートル)は高さが70センチだった。
同センターは「大規模な範囲に各遺構が形成され密接に関連している。環状配石遺構で祭祀を行い、墓域周辺で葬送儀礼を行った祭祀遺跡だ。縄文晩期の墓や祭祀儀礼を考える上で貴重な遺跡だ」と話している。【村川幸夫】
■掲示板“北羽歴史研究会”にも向様田遺跡他、秋田・東北地方の遺跡に関する話題が豊富です。■日本各地で環状配石遺構(ストーンサークル)は、見られるが、その代表的なものを紹介!1)三内丸山遺跡の1999年度の発掘調査概要にも見られる環状配石遺構の著述。2)青森の大湯ストーンサークル、3)山梨県、牛石遺跡のストーンサークル、4)長野県大桑村の遺跡は、その規模で日本一?■矢瀬遺跡の案内■矢瀬遺跡のある月夜野町のガイドサイト■サイト“新潟県立歴史博物館”にある寺地遺跡の案内ヒスイの工房跡があった遺跡としても知られる同寺地遺跡■
9月27日松山瓦窯遺跡、かわら窯5基発掘 常陸国分寺に供給−千代田町調査結果/茨城(毎日新聞、2001年9月25日)記事:千代田町はこのほど、常陸国分寺(石岡市)に供給するかわらを焼いていた松山瓦窯(がよう)遺跡=同町中志筑=の発掘調査結果を発表した。今回の調査では、山の斜面をトンネル状に掘った全長15メートルの窯5基が姿を現した。かわら窯を5基まとめて本格的に調査したのは県内初だという。

発掘調査は、町道建設にともない7月から始まった。
窯は「地下式有段登窯」と呼ばれる形式のもので、手前に作業をする「前庭部」、中間部に火を燃やす「たき口」、奥にかわらを並べて焼く「焼成室」があった。焼成室は奥へ向かって上る階段状に掘られており、現地ではこの窯が6基確認された。このうち町道建設地にまたがる5基を今回、調査した。
焼成室で出土したかわらの模様から、この窯は8世紀中ごろから後半のものと判明した。常陸国分寺へかわらを供給するための窯群は、石岡市近辺でこのほかにも4カ所ほど確認されている。しかし、町によると保存状態が良く、5基まとめて本格的に調査できた例は県内で同遺跡のみ。
発掘に当たった山武考古学研究所(千葉県成田市)の間宮正光・調査係長は「常陸国分寺の造営の経緯を解明するのに、今回の調査結果は大いに参考になる」と話している。【種市房子】
石岡市の公式ホームページにある“常陸国分寺跡”の案内■サイト“雅楽頭とRossoのホームページ”には、茨城史跡案内「茨城の古代」があり、その中に国分寺の紹介も!■霞ヶ浦郷土資料館の刊行物に、この古代の瓦に関する図録がある。■サイト“郷土文化財コレクション(関東文化財地図)”にある、茨城県の文化財コレクションに紹介されている。■山武考古学研究所非公式掲示板地域史研究雑誌データベースにも千葉県コーナーに山武考古学研究所の文献の一部が!■
飛騨最古の古墳に、木棺埋葬のこん跡−国府町・保別戸古墳、きょう説明会/岐阜(毎日新聞、2001年9月22日)記事:県文化財保護センターが発掘調査している国府町瓜巣の「保別戸(ほべっと)古墳」で、古墳時代初期(3〜4世紀)と推定される古墳2基が見つかった。飛騨地方で最古とみられ、一方からは、この地方で初めて木棺を埋葬したこん跡が確認された。
2基の古墳が見つかったのは見量山(みはかやま)北側の尾根先端部。1辺が10〜20メートル、高さ1〜2メートルの小規模の墳丘。木棺のこん跡が発見されたのは2基のうちの南側に位置する1号古墳。こん跡から木棺の大きさは縦1.8メートル、横80センチと推定された。2基の古墳からは3〜4世紀と見られる土師器や弥生時代末期(3世紀)の刃の鋭い磨製石鏃(せきぞく)が出土。いずれも弥生時代の技法を色濃く残しているという。同センターは「規模や形態から弥生時代の墳丘墓を踏襲した可能性が高く、北陸地方に多い方形台状墓の影響も考えられる」としている。
また、同センターが発掘調査していた高山市上切町の「ウバガ平遺跡」で、古墳時代中期から後期(5〜7世紀)にかけての竪穴(たてあな)住居跡4カ所が見つかり、うち1カ所からは古墳時代の管玉2点が出土した。同センターは22日午前11時から「ウバガ平遺跡」で、同日午後2時から「保別戸古墳」で、それぞれ現地説明会を開く。【奈良正臣】
財団法人岐阜県文化財保護センターのホームページには、発掘の詳細が!■
9月21日児の宮遺跡・道路状遺構、古代の官道「東山道」か−阿智村教委発表/長野毎日新聞、2001年9月19日)記事:阿智村教育委員会は18日、同村春日中関の中関遺跡から古墳時代の祭事場が、同村智里西園原の児(ちご)の宮遺跡から道路状遺構がそれぞれ出土したと発表した。いずれも古代の官道、東山道のコースにあった可能性もあるとみている。
中関遺跡では、地中約1メートルから1300〜1500年前の古墳時代の土器片多数が出土。約1メートル四方には剣形や円板の石製模造品計17個、臼玉4個、管玉2個が意図的に配列されていた。祭事場特有の配置であり、県下ではほとんど見られないという。
一方、中関遺跡から西約10キロにある児の宮遺跡では古代の官道のひとつ東山道にかかわる遺構が見つかった。発掘にあたった今村善興飯田市文化財審議委員は、古墳時代の黄褐色土▽その上部の砂利層から大型須恵器片が集中的に出土▽踏み固められたような砂質の面がある――といった点から幅4〜6メートルの道路状遺構と推定。地形的条件から東山道の可能性もあるとみて今後も調査する。【肥田木良臣】
■2000年8月23日付けで南信州新聞に掲載された児の宮遺跡発掘調査終了の記事。■飯田市阿智村にある昼神温泉の紹介阿智村の案内サイト昼神温泉郷の案内サイト(昼神伝説の紹介も!)■阿智村公式ホームページ(このサイトには周辺の村々のサイトとのリンクコーナーもあります。■サイト“信泉会(信州の温泉を訪ねる会)のホームページ”にある信州歴史街道東山道の紹介
9月19日川西町立図書館で関連図書など資料解説目録が完成 能楽を知る貴重なガイドに/奈良(毎日新聞、2001年9月17日) 記事:能楽観世流発祥の地とされる川西町の町立図書館が収集した能楽関連の図書、ビデオ、雑誌など資料約600点の解説目録が完成した。昨年度の緊急地域雇用対策特別交付金による町商工会委託事業。入門者から研究者まで、貴重なガイドになりそうだ。
図書は「入門及び鑑賞案内」「歴史と人物」「謡曲・謡本」など6章に分け、目的に応じて探せる。書名、著者のほか、70文字以内で内容を解説している。CD、カセットテープ、ビデオテープも、タイトルと内容を紹介。A4判、57ページ。500部を刷り、図書館で希望者に配っている。
能楽を芸術的な演劇として完成させた観阿弥(かんあみ)が本拠を置いたのが結崎村(現・同町結崎)で、同町が観世流発祥の地とされている。問い合わせは(0745-44-2212)へ。
今夏、同図書館の所蔵資料は、インターネット検索で、貸し出し状況も調べられるようになった。大量の石製腕飾りの出土で知られる「島の山古墳」(同町唐院)と能楽に関する資料も町内外から検索できるようになる。
外出が困難な町民に資料を宅配する制度はこれまでも設けていたが、利用が少なかった。インターネット検索の実現で、宅配制度が有効活用されそうだ。宅配条件などは電話で相談に応じる。町は、小・中学校や図書館など町内の9公共施設を光ファイバーで結んだ地域情報ネットワークを構築しており、小中学生や町民はこれらの施設に設置した端末を通じた検索も可能になる。ホームページのアドレスはhttp://www.library.kawanishi.nara.jp【花岡洋二】
■観世流といえば、観世流のオフィシャルホームページ“”、観世九皐会のサイト“観世九皐会・矢来能楽堂”とサイト“片山家能楽保存財団”。学校向けの能楽教材から、講演の案内まで幅広く情報提供してくれます。■サイト“大阪能楽会館”には、便利な能楽関連リンク集が!■サイト“和の学校”にも楽という優れたリンク集があります。能に限らず広く日本古典芸能関連情報を網羅しています。■川西町のホームページにも能楽発生の地“”の案内!■能楽観世流シテ方、観世喜正(よしまさ)さんのホームページ面塚<観世流オフィシャルサイトの中にあります>■観世流第二十六世宗家
観世清和さんの著書『一期初心』の紹介
9月5日装飾付き太刀、2本出土 柄の部分に鹿の角−飯綱山古墳群31号墳/新潟(毎日新聞、2001年9月3日)記事:◇大和との関係解く資料に/六日町余川にある飯綱山古墳群の31号墳から柄(つか)の部分に鹿の角の装飾が付いた太刀2本が県内で初めて出土した。61号墳からは、装飾が施された県内初の刀剣がすでに発掘されているが、今回の太刀は、刀剣に次ぐ貴重な資料だ。2日には発掘を担当している新潟大学考古学研究室による、現地説明会が開かれ、橋本博文教授は「装飾の付いた太刀は、大和政権との結び付きを解明する重要な資料だ」と説明した。
県指定文化財の飯綱山古墳群は、5〜7世紀にかけて築造された大小約100基の古墳からできている。31号墳は直径17メートル、高さ1.7メートルの中規模古墳。出土した土器片から5世紀後半の築造と判断される。2本の太刀は鉄製で、長さ約65センチと約80センチで、棺内の遺体の両わきに置かれていた。
装飾された太刀について、橋本教授は「奈良県御所市の南郷遺跡群で、装飾付き太刀の工房が確認されているだけに、大和政権が北方の豪族を配下にするため、太刀を贈った可能性も考えられる」と説明している。
また、2本の太刀が同一古墳から出たことについては、「かなりの勢力を持った豪族の墓で、当時の魚沼地方は、県内で最も栄えた地域だったのでは」と推測している。【神田順二】
■サイト“新潟県立歴史博物館”にある飯綱山古墳群の紹介。■
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8月記事関連情報リンク
8月24日大阪の古墳から国内最古級の割竹形木棺が出土読売新聞、2001年8月23日)記事:大阪府八尾市亀井の久宝寺(きゅうほうじ)遺跡にある古墳から、国内最古級と見られる古墳時代初頭(3世紀末ごろ)の割竹形木棺(わりたけがたもっかん)が出土したと、同府教委が23日発表した。木棺はコウヤマキの丸太をくりぬいて作ったもので、方墳(南北10.5メートル、東西12.5メートル、高さ1.7メートル)の中央部に納められていた。大きさは、長さ3.2メートル、幅40センチ、厚さ5-6センチ。ほぼ原形をとどめており、内部からは数点の歯が発見された。同遺跡からは以前、丸木船に波よけ板が付いた精巧な準構造船が発掘されており、府教委では「大和(奈良)に通じる水運拠点の有力者が埋葬されたのではないか」と推測している。■同様の船に関する木製品遺跡出土の情報:袴狭遺跡出土木製品について、同内容の読売新聞大阪版の詳細記事(写真有)■久宝寺遺跡のある八尾市の歴史民俗資料館のホームページ■大阪の遺跡地図(久宝寺遺跡を含む)■サイト“木の情報発信基地”にあるコウヤマキの写真■サイト“森林総合研究所九州支所”にあるコウヤマキ(高野槇:和歌山県高野山に多いことで命名された)の基本情報■サイト“木は神”にある棺材としてのマキの話マキの知識
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7月記事関連情報リンク
7月20日興福寺中金堂 都で2番目の巨大建築(朝日新聞、2001年5月15日)
7月16日出土木製品が3世紀初頭伐採と判明<奈良・勝山古墳>(「朝日新聞」2001年5月30日桜井市職員による“桜井インターネット研究会”サイトには、この勝山古墳発掘関連の情報が!●サイト“列島いしにえ探訪”にある古墳・遺跡紹介コーナー●馬見古墳群調査委員会が運営するサイト“大和の遺跡
7月4日<大阪>枚方宿の「鍵屋」を資料館として一般公開 (朝日放送、7月3日)大阪。枚方市の情報提供する“旧枚方宿探訪”●この周辺の観光ガイドはこちら。●枚方についてなら、サイト“Plain枚方”がスグレモノ!文化財に関する情報も満載。
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6月記事関連情報リンク
6月28日藤原京跡から発見された木簡で当時の中務省の実態が明らかに?メディアの報道もさまざま。「中務省の実態が明らかに!」(毎日新聞、27日)「皇居外に中務省があった!」(朝日放送、27日)などと反応と記事のポイントはさまざま。
6月24日最古の漆?14日発信のニュース(毎日新聞)に遡りますが、今度は、北海道で今まで6000年前が最古とされていた漆。なんと約9000年前、縄文早期。場所は、北海道の南茅部町!記事はこちら。7月4日現在、記事は削除!)●南茅部町の案内はこちらから。
6月23日 大分県横尾遺跡で発見された集落跡は、縄文早期のものではないかと見られている。とすれば、日本最古の遺跡?(毎日新聞)。
記事関連;(毎日新聞より)縄文時代早期(約6000年以上前)の建築部材は、ドングリのあく抜きなどをした水場の足場の材らしい。水場遺構としては縄文前期(約6000〜3000年前)の北海道・北黄金貝塚をさかのぼって国内最古の可能性が高いとのこと。
●大分の文化財情報に関しては、こちら。●サイト“豊後考古学通信”でもこうした情報が得られます。
6月22日山形県遊佐町の三崎山遺跡で発見された青銅器は、殷王朝製ではないかと見られている。(毎日新聞、記事は、7月4日現在、削除!)この時代の日本海側、山形との中国との交流は?と考えさせられるきっかけとなる。
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